2009年06月17日

壁材として、日本では石、土壁、板壁、漆喰などが

壁材として、日本では石、土壁、板壁、漆喰などが用いられる。明治、大正時代は、煉瓦壁。第二次世界大戦後は、コンクリート、石膏ボードなどが用いられている。洋風建築の普及に伴い、断熱材等の開発が行われている。防音目的でグラスウール(近年では断熱も兼ねて被覆されたもの)が用いられる場合もある。

屋外ではコンクリートやトタンの上に塗装を行ったりして装飾される。また、石膏ボードの場合にはそれ自体にプラスチック又はアルミニウムなどの板により装飾がされているものもあり、その場合外壁材として直に張られる。
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室内は塗料、壁紙などで装飾される。床から1メートルほどの高さまでは汚れたり傷んだりしやすいため、この部分だけ補強を兼ねて板やタイルで装飾されることもある。この部分、あるいはこのような装飾を腰壁という。

崖などに於ける壁材はコンクリートの他に硬化プラスチック製の物がある。主に風化や波による浸食で崩落した場合の景観復元のために用いられている。

また、次世代の壁として愛知万博のパビリオンの様に水のカーテンを壁としている場合もある。

比喩的な「壁」 [編集]
壁が内と外とを隔て、外界からの影響を遮断するものであることから、転じて心理的あるいは象徴的に何かを隔てるもの、あるいは行く手に立ちふさがる大きな障害を比喩的に壁と呼ぶことがある。例として、「男女の壁」「夫婦の壁」「世代の壁」「記録の壁」「心の壁」「言葉の壁」「音の壁」「バカの壁」などが挙げられる。スポーツ関係でいう「記録の壁」は、例えば100メートル走におけるかつての「10秒の壁」などが知られる。特に遮断するという意味では、コンピュータ用語としてのファイヤーウォール(防火壁)は、コンピュータネットワークに於いて通信の内容を監視し、外部からの侵入活動などを遮断する役割を持つソフトウェアあるいは機器を指す。サッカーなどでゴールキーパーが「鉄壁」と喩えられることもある。また野球ではその役割から、ブルペン捕手を譬喩する。

また、大きくのっぺりした平らな面といった形状から壁と呼ばれている構造物もある。例えば、山岳用語では海岸段丘や山の崖などにおける平らな垂直部分を壁または壁面と呼ぶ。あるいはコンピュータ用語でGUIにおいて、背景として置く画像を壁紙と呼ぶのもこのような意味の比喩である(ただし壁紙が貼ってある作業域はデスクトップ(机上)である)。天文学の世界でも、宇宙の大規模構造における超銀河団の数億光年にわたる連なりが、グレートウォールと呼ばれている。

単に区切りという意味では、パソコン通信のニフティサーブにおいては会議室(いわゆる電子掲示板)と会議室を区切るための空の会議室があり「壁会議室」又は単に「壁」と言われた。このような区切り会議室は通常は書き込みができないようになっているが、偶然又は故意に書き込めるようにしたものもあり、そういう会議室はさながら「壁」への落書きのようにボードチャットや本来のフォーラムの趣旨とは関係ない書き込みで満たされた。

教育用語においては、脳の認知機能などの変化をさす物として、「9歳の壁」あるいは「10歳の壁」という表現が使われる。

2009年05月31日

世宗の後をついで1189年に即位した

章宗は漢文化への傾倒が激しく、自ら第二の北宋の徽宗を自認して、絵画・書の作品を残した。また、この時期は国内が安定したこともあって明昌の治とも称されている。しかし、北方モンゴル高原では部族勢力の動きが活発化してタタルや契丹の反乱が激しくなり、金は鎮圧に際してケレイトやモンゴルの助けを借りたためケレイトやモンゴルの勢力が増大し、1206年にモンゴルのチンギス・カンによる高原の統一を間接的に助けた。一方、北方の動乱の情報を得て金が疲弊したと考えた南宋の宰相韓侂冑はこれを好機と見て1205年に金に攻め込んだが、金に撃退され、南宋は韓侂胄の首と引き換えに和約を結ばなくてはならなかった。
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そのような中で7代衛紹王が即位すると、チンギス・カンはこれに対する朝貢を拒否して金と断交し、1211年に自らモンゴル軍を指揮して金領に侵攻した。内モンゴルにいた契丹人を服属させたモンゴル軍は金軍を破って長城を突破し、2年あまりにわたって金の国土を略奪した。1212年には契丹人の耶律留哥が叛乱を起こして分離、現在の吉林省から遼寧省にかけて広がり、モンゴル勢力下に入った(東遼)。敗北を重ねた金では1213年にクーデターが起こって将軍胡沙虎によって衛紹王が殺され、さらに胡沙虎が殺された。相次ぐ敗北により抵抗の手をふさがれた新帝宣宗は同年にモンゴルに対する和議に踏み切り、モンゴルに対する君臣の関係を認めて歳貢を収めることを約束し、皇族の娘(廃帝・衛紹王の皇女)をチンギスに嫁がせる屈辱的な内容の講和を結んだ。

講和によりチンギスは撤兵するが、金は翌1214年にモンゴルを避けるため河南の開封に遷都した。このとき、金の南遷に動揺した契丹の一部が中都(燕京)で反乱を起こしてモンゴルに援軍を求め、チンギスも金の南遷を和約違反と責めて金に対する再侵攻を開始した。1215年夏、半年以上モンゴル軍の包囲にさらされた末に中都は陥落し、金は故地東北を含む黄河以北の大部分を失った。同年、耶律留哥の叛乱鎮圧を担当していた蒲鮮万奴が分離して大真国(東真国・東夏国)を建て、遼東半島の一部から沿海州南部までを支配した。

金は開封を都とし河南地方で辛うじて命脈を保ったが、その後もモンゴルの南進を食い止められず、1232年三峰山の戦いで大敗し軍主力が消滅。その後抵抗もままならず1234年についに開封を包囲、占領された。最後の皇帝哀宗は開封から脱出し蔡州に逃れるところをモンゴルと南宋の連合軍に挟撃されて自殺し、金は滅亡した。

2009年04月27日

蠕動

蠕動とは、(英:vermiculating movement)細長い虫が這う姿に似た運動のあり方のことである。例えばミミズの運動がそれである。
(英:peristalsis)消化管において、輪状筋が周期的に環状の収縮を次々と下部に伝え、内部の物を肛門部へ移動させる大腸の運動等がある

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蠕動(ぜんどう、英:peristalsis)は、生物の管腔臓器において、平滑筋の収縮が連続することによって管腔内の物質をある一定方向に動かす運動のこと。消化管や胆管、尿管、卵管、その他の分泌管など生体内のほとんどの管腔で見られるが、主に消化管の活動について使われることが多い。

消化管にある輪状筋が食物塊の存在で伸展すると、それが刺激となって収縮運動を行う。周期的に環状の収縮を次々と下部に伝え、食物塊を肛門側へ移動させる。

蠕動は自律神経に支配されている。神経堤に由来する迷走神経の節後神経である腸管神経叢(アウエルバッハ神経叢とマイスナー神経叢)が腸管の輪状筋および縦走筋を支配している。このため、意識的に蠕動運動を活発にさせることはできない。また腸管神経叢が先天的に欠損すると、その部分の蠕動が行われないために食物塊が貯留し、巨大結腸を呈する(ヒルシュスプルング病)。

2009年04月12日

原始惑星系円盤

原始惑星系円盤(げんしわくせいけいえんばん、protoplanetary disk)は新しく生まれた恒星(おうし座T型星)の周囲を取り巻く濃いガスが回転している円盤である。英語では proplyd という略称で呼ばれる場合もある。原始惑星系円盤のガス物質は円盤の内側の境界から中心星の表面に向かって落ち込んでいるため、この円盤は一種の降着円盤であると見ることもできる。(この降着過程は円盤内部で物質が集積して惑星が作られる過程とは別である。)

おうし座T型星を取り巻く原始惑星系円盤は、近接連星系の周囲に存在する円盤とは大きさや温度の点で異なっている。原始惑星系円盤の半径は約1,000天文単位までで、連星系の円盤に比べて低温である。その温度は円盤の最も内側でようやく1,000Kを越える程度である。原始惑星系円盤には多くの場合ジェットが付随している。

典型的な原始星は水素分子を主成分とする分子雲から生まれる。分子雲の一部で大きさ・質量・密度などがある上限値に達すると、その雲の塊は自己重力によって収縮を始める。このような収縮しつつあるガス雲は原始太陽系星雲 (solar nebula) と呼ばれ、収縮によって密度が次第に高くなる。この収縮過程でガス雲が元々持っていたガスの乱雑運動は均される一方で、ガス雲の全角運動量は角運動量保存則によって不変なため、原始太陽系星雲が収縮して小さくなるにつれて星雲全体がある回転軸の周りに自転するようになる。この自転によって(生地を回転させることで平たいピザができるのと同様に)ガス雲は扁平になり、円盤状の形状を持つようになる。この最初の収縮過程は約10万年続く。この収縮が終わる頃には中心星の表面温度は同じ質量を持つ主系列星と同程度にまで上昇し、光を放射して外部から見えるようになる。この段階に達した星はおうし座T型星と呼ばれる。その後、円盤から中心星へのガスの降着が約1,000万年続いた後、円盤は外部から見えなくなる。円盤が観測されなくなる原因は、中心星の恒星風によって吹き飛ばされるか、あるいは単に質量降着が終わって円盤が光を放射しなくなるためだと考えられている。これまでに発見されている原始惑星系円盤で最も年齢が古いものは約2,500万年である。

太陽系の形成を説明する星雲説では原始惑星系円盤がどのようにして惑星系へと進化するかを次のように説明している。原始惑星系円盤の内部では、塵や氷の微粒子が静電気力や重力相互作用によって集積し、微惑星が作られる。この集積過程は、円盤のガスを系の外に四散させようとする中心のおうし座T型星からの恒星風や、円盤の物質を中心星に落とし込もうとする降着過程との競争となる。

我々の銀河系の中では、いくつかの若い星の周囲で原始惑星系円盤が観測されている。このような原始惑星系円盤は1984年にがか座β星で最初に発見された。最近のハッブル宇宙望遠鏡による観測で、オリオン大星雲の中に多くの原始惑星系円盤が見つかっている。

また太陽に近い明るい恒星の中でも、こと座のベガやかんむり座α星、みなみのうお座のフォーマルハウトなどでガスや塵からなる大きな円盤が恒星を取り巻いているのが発見され、当初は原始惑星系円盤ではないかと考えられた。これらのうち、ベガとフォーマルハウトはカストル運動星群 (Castor co-moving group) と呼ばれるほぼ同じ空間運動をしている恒星で、かつては同じ星間雲から生まれたと考えられている。最近のヒッパルコス衛星による観測で、この運動星群の年齢は約2±1億年と見積もられている。このことから、ベガとフォーマルハウトに見られる赤外線放射の超過は原始惑星系円盤というよりは、微惑星同士の衝突の過程で弾き飛ばされた小天体からなる円盤という解釈が妥当であると現在では考えられている。この説はハッブル宇宙望遠鏡によるフォーマルハウトの円盤の観測によっても裏付けられている。

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2009年03月27日

カロリング朝

カロリング朝(カロリングちょう、Carolingian)は、フランク族のカロリング家による王朝。カロリング家は、フランク王国の前王朝であるメロヴィング朝に仕える宮宰(宰相)であったが、次第に実権を握り、フランク王国2番目の王朝を開いた。なお、「カロリング」は姓ではなく「カールの」という意味である。当時のフランク人には姓はなかった。

751年から987年までフランク王国やそれが分裂した東フランク王国・西フランク王国・中フランク王国の王を輩出した。987年、西フランク王国の王家断絶をもって消滅した。

大ピピン(?-639年)
カロリング朝の始祖。メロヴィング朝フランク王国の分国(アウストラシア)で宰相として仕えた。
中ピピン(640年?-714年)
大ピピンの外孫。687年のテルトリーの戦いでフランク王国の実権を握る。
カール・マルテル(688年?-741年)
中ピピンの庶子。宰相としてフランク王国を統一する。732年、トゥール・ポワティエ間の戦いでウマイヤ朝イスラーム帝国を撃退する。
小ピピン(714年-768年、在位751年-768年)
カール・マルテルの子。メロヴィング朝の王を廃してフランク王に即位し、ローマ教皇ステファヌス3世にラヴェンナなどを寄進(ピピンの寄進)。
カール大帝(742年-814年、在位768年-814年)
800年に教皇により戴冠、西ローマ帝国の復興。カロリング朝ルネサンスといわれる時代を築く。
ルートヴィヒ(ルイ)1世(敬虔王)
817年に3人の息子たちに王国を分割相続させる法律を作り、死後、フランク王国は分裂する。

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2009年03月12日

聖ペーター僧院教会

聖ペーター僧院教会(de,St.Petersstiftskirche)は、聖ルーペルトが696年に開いたベネディクト派の教会であり、ドイツ語圏のなかでは最も古いとされる男子修道院である。当初はロマネスク様式を主として建てられ、三廊式バシリカの形式をもち、回廊西翼や玄関にはロマネスク様式の、マリア礼拝堂には初期ゴシック様式の古い建築様式を今に伝えている。18世紀後半には後期バロック様式で改築され、内装はきわめて壮麗かつ優美さも加わり、すでにロココ様式の片鱗もみられるとの評価がある。

その教会墓地であるペータースフリートホフ(Petersfriedhof)はロマン主義の時代には、ロマン主義者たちが好んだ強烈な磁場をもつ空間となった。18世紀に活躍したミヒャエル・ハイドン(フランツ・ヨーゼフ・ハイドンの弟)もここに眠っている。また、ロマネスク-ゴシック期の岩窟礼拝堂、グロッタや初期キリスト教徒の地下納骨堂(カタコンベ)も見学することができる。
マザーグ ロリータ あんずいろ ラウオル すないろ ブレザー ブリタ ブルジョア ドレス タジン スイート こるてーぜ ハザード ソフィア シャタカイ ロンド モーリ ルッコラ マジョル ドット 寒玉日本 フッラ アルマジ マドリード メーター ディレク 紅ほっぺ パパンサ スーツ きんしゃ チザン ミオシン ティン ドーマン ケイソウ きしょうてん スミレ ルーキー カムロ ハーフセ リフレッ オーバー おみたま ボジェット ヒイラギ スコー タチSEO マトーダ グッドア チェスト

聖ペーター僧院教会に隣接して、メンヒスベルク山の岩盤をくりぬいた岩肌を利用したレストラン「シュティフツケラー・ザンクト・ペーター」があり、フランク王国のカール大帝の宮廷に仕えたアルクィンが803年に「ヨーロッパ最古のレストラン」として記録している。1720年以降は、貴族や市民、聖職者たちがここに出入りするようになり、ミヒャエル・ハイドンもしばしば訪れている。教会墓地付近には彼が居住したことを記した銘板のある建物もある。

ノンベルク修道院
西暦700年ころにブルクベルクの山麓に創立されたドイツ語圏最古の女子修道院であるノンベルク修道院もまた、かつての遺構、遺物を多く保持している。15世紀後葉に改造された三廊式バシリカには1150年のロマネスク期制作の壁画が今も残っている。

フランチェスコ会修道院聖堂
フランチェスコ会修道院聖堂は、聖ペーター僧院教会とレジデンツの間に位置している。後に多くの付属施設が加えられることとなったが、中世の建築要素がもっともよく維持された建物として知られている。それに対し、西暦800年ごろに建築された聖ミヒャエル聖堂は、商人の教区聖堂としての中世の伝統をもはや見ることができない。

ホーエンザルツブルク城
ホーエンザルツブルク城(de;Festung Hohensalzburg)は、1077年、神聖ローマ皇帝ハインリヒ4世とローマ教皇グレゴリウス7世の間に起こった叙任権闘争のさなか、教皇派の大司教ゲプハルト(ゲプハルト・フォン・ヘルフェンシュタイン1世、Gebhard of Salzburg)が皇帝派の南ドイツ諸侯に対抗すべく建築した防衛施設で、旧市の南端、メンヒスブルク山の山頂に立地する。ゲプハルトにはじまった増改築はマイセン辺境伯コンラート1世(1098年ころ-1157年)のもとで一応の終了をみた。「赤ひげ王」として知られる神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世"バルバロッサ"(在位1152年-1190年)によってザルツブルクの町が焼き払われたことがあったが、この城はそのときも無事であった。

ホーエンザルツブルク城は、町のほとんどどこからでも見ることができ、1.3キロメートルにわたって続く高さ約50メートルの高地をなしている。一番高い場所(ホーアー・シュトゥック)の標高は508メートルである。

城のなかには、等身大の12使徒像がならんだ1498年建造の「聖ゲオルク礼拝堂」、ザルツブルクの町の人びとに時を告げる、1502年製作の機械オルガン「ザルツブルクの雄牛」があり、いずれもレオンハルト・フォン・コイチャッハ大司教(在位1495年-1519年)の大拡張によるものである。その後も歴代の大司教により増改築がくり返され、17世紀後半にはほぼ現在の姿に近づいたと考えられる。

内部はブルク博物館になっており、マヨルカ焼の後期ゴシック様式の豪華なストーブや武器、魔女狩りが盛行した時期の拷問具などが展示され、「黄金の大広間」「黄金の小部屋」など後期ゴシック様式の壮麗な部屋がある。15世紀までは大司教の住居として使用され、それ以後は兵舎または牢獄として利用されたが、外敵に占領されたことが一度もなく、ヨーロッパ中世のものとしては完璧に保存された稀有な例となっている。「レックの塔」からは北に市街地、南にアルプスの山々を見わたすことができる。

ホーエンザルツブルク城では毎年「国際サマーアカデミー」がひらかれており、世界中の芸術家が集まる。山頂へは、1892年開通のケーブルカーが約10分間隔で往復している。

市内にのこる市壁の痕跡
11世紀後半の城の建設に対して、市壁の建設が決定されたのはようやく1278年になってのことであった。市壁の痕跡はいまも市街にのこっており、中世の都市構造はつづら折りになった小路とともによく残されている。

レジデンツ広場
レジデンツ広場(de;Residenzplatz)は、ツェントルムと呼ばれる旧市街の中心に位置し、中央には「アトラス神の噴水」がある。三方を大聖堂(南)、レジデンツ(西)、グロッケンシュピール(東)に囲まれた一画である。

広場西側にはその名称の由来となったレジデンツ(宮殿)が建っている。現在の宮殿は1619年に完成したもので、歴代の大司教が居住して政治をおこなった場所であり、すべての部屋の天井にはアレクサンドロス大王の絵が描かれている。「神童」と呼ばれた天才モーツァルトが5歳で音楽会をひらき、また、はじめて自作のオペラを上演したところでもあり、モーツァルトの主人であったヒエロニムス・フォン・コロレド(Hieronymus von Colloredo, 1772年-1803年)はザルツブルク最後の大司教となった人物である。

現在、レジデンツ内部はザルツブルク州立博物館となっており、そのギャラリーにはヨーロッパの美術品とくに中世絵画が多数収集され、中世の武具なども数多く展示されている。

広場の東側には35個の鐘をつけた新宮殿(州庁舎)の鐘楼があり、「グロッケンシュピール」とよばれるカリヨンがある。1695年、ヨハン・エルンスト・フォン・トゥーン (Johann Ernst von Thun) 大司教がベルギーのアントウェルペンの鐘鋳造職人メルキオール・デ・ハーゼから購入したものと伝わる。7時、11時、18時の1日3回、モーツァルトの曲を演奏する。

モーツァルト広場と大聖堂広場
グロッケンシュピールの北側はモーツァルト広場(Mozartplatz)とよばれ、中央にモーツァルト像があり、カフェやレストランが並んでいる。その北のモーツァルト小橋によってザルツァッハ川右岸の新市街と結ばれている。

レジデンツ広場の南側、大聖堂のさらに南にはドーム広場(Domplatz)があり、聖ペーター僧院教会とのあいだの狭い坂道の裾にホーエンザルツブルク城へのケーブルカー搭乗口がある。

中世の小路と街並み
ザルツブルク旧市街にはゲトライデ通り(Getreidegasse)、ユーデン通り(Judengasse)、 ゴールト通り(Goldgasse)、ブロート通り(Brodgasse)、河畔通り(Kaigasse)、新市街にはリンツァー通り(Linzergasse)、シュタイン通り(Steingasse)など数々の小路があり、中世の都市構造は、これら不規則に絡み合った細い小路によく残されており、その街並みにはアーケードをめぐらせた中庭がともなっている。また、それぞれの小路では、中世様式、ロマネスク様式、ルネサンス様式、バロック様式など各様式で建てられた建築物や、ハプスブルク朝時代における擬古典的で優雅な民家を目にすることができる。

旧市街(ツェントラル)中心部のゲトライデ通りには商店、同業者組合、業者などの装飾的な鉄細工の看板がたくさん並んでおり、現在では、ユーデン通りとならび、ザルツブルク旧市街で最も繁華な小路となっている。ユーデン通りは、その名のとおり、かつてユダヤ人の居住したゲットーのあった小路である。

1756年1月27日にヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトが誕生したといわれる家(Mozarts Geburtshaus)は、ゲトライデ通り9番地に所在する黄色い建物の4階にあり、現在はモーツァルト記念館として残されている。1769年、ときの大司教ジークムント・フォン・シュラッテンバッハ (Sigismund von Schrattenbach) は、13歳のモーツァルトを宮廷楽団のコンサートマスターに任命している。

ここには愛用のピアノやヴァイオリンなどの楽器、自筆の楽譜のほか、父レオポルト、母アンナ、姉ナンネルルをはじめとするモーツァルト一家の肖像画などが展示されている。

「大司教の町」であったザルツブルクは、ウィーンのような有力貴族を欠いており、音楽をたしなむ階級が圧倒的に不足していた。モーツァルトは、すでに家族とともに1762年にはウィーンへ演奏旅行で訪れ、大好評を博していた。彼がザルツブルクでの宮廷作曲家の職を辞し、ミュンヘン、マンハイムを皮切りに新天地に職を求めて旅立ったのは1777年、モーツァルト21歳のときであった。

ザルツァッハ川右岸地域
南東から北西にむかうザルツァッハ川の右岸、すなわち市の北部にあたる新市街にも歴史的に重要な建造物が残っている。その代表的なものがミラベル宮殿である。

教ヴォルフ・ディートリヒが愛人ザロメ・アルトのために建てたとされるのがミラベル宮殿(de、Schloss Mirabell)である。ヨハン・カスパール・ツッカリ(1677年-1717年)の設計による。1818年に火災があり、そのあと修復され、現在はザルツブルク市長公邸として用いられている。2階には壮麗な「マルモーア・ザール(大理石の間)」があり、モーツァルト親子もここで演奏をおこなっている。2階にのぼる階段は「天使の階段」と呼ばれ、1723年にラファエル・ドナーによって造られたものである。

なお、ツッカリによるザルツブルクの他の建築にはカイエターナー聖堂、エアハルト聖堂、レジデンツ、大学旧館などがあり、上述した旧市街のレジデンツ広場、大聖堂広場もツッカリの設計による。

ミラベル宮殿には、1690年にフィッシャー・フォン・エルラッハ(1656年-1723年)によって設計された美しいミラベル庭園(de;Mirabellgarten)が付設されている。庭園には、ギリシア神話の神々の彫刻がならび、「ペガサスの噴水」のまわりは、映画『サウンド・オブ・ミュージック』でジュリー・アンドリュース演じるマリア先生が子どもたちと一緒に「ドレミの歌」を歌い、踊ったところである。

なお、エルラッハの手によるものとしては、参事会聖堂、ヨハンネスシュピタール聖堂、ウルズリーネン聖堂があり、後述する三位一体聖堂もエルラッハの設計によるものである。

モーツァルテウム
ミラベル庭園に隣接して音楽院モーツァルテウム(Mozarteum)がある。附属図書館にはモーツァルト関連資料が保管されている。また、ウィーンで『魔笛』を作曲したという伝説の小屋が移築、保存されている。

人形劇場と州立劇場
モーツァルテウムに隣接して、人形劇場(Marionettentheater)がある。約1メートルの背丈のマリオネットを用いてモーツァルトのジングシュピールなどを上演しているオペラ劇場である。隣接してザルツブルク州立劇場があり、内装の豪華なことで知られる。

三位一体教会
ザルツブルクにおけるフィッシャー・フォン・エルラッハ最初の建築といわれるのが、三位一体教会(Dreifaltigkeitskirche)であり、1694年から1702年にかけて建てられた。2本の時計塔を有するバロック様式の教会で、ドームのフレスコ画はヨハン・ミヒャエル・ロトマイヤーの手によるものである
大司教マルクス・フォン・ホーエネムスの夏の離宮として建てられたヘルブルン宮殿(de;Schloss Hellbrunn)はザルツブルク南郊に所在している。

至るところに水の仕掛けがあり、庭の石造りのテーブルから定期的に水が噴き出す仕掛けや噴水により王冠を浮かび上がらせる「王冠の噴水」などで有名である。かつて大司教はこの宮殿に客を招き、宴もたけなわになると水を降らせて客がびしょ濡れになるのを楽しんだという。1613年から1615年にかけて改築され、5つの水力機械、256体の木偶を備えた機械劇場がある。

庭園内にはマルクス・フォン・ホーエネムスが1月で完成させたという伝説をもつモーナーツ城があり、現在は民族博物館として利用されている。

2009年02月23日

プラトンの倫理学の特色

プラトンの倫理学の特色は「徳は知である」[2]という記述に集約されよう。ただしこれは徳が伝達可能な技術知であるという意味ではない[3]。 徳は想起 (anamunesisi) の知であり(同81)、イデアに思索的に至る形而上学的知である。すなわち、プラトンは形而上学とひとつになった倫理学を初めて確立した。
サルカ おれたち レンソ ステキな レッスンプ モラル ハート バイオポ キックボ カーヒー テガシワ ビュル テープデ ブークレ バーキ ヒートシン カタル スノーソ シーディー スカラー ヒデリコ ステル トローチ ブレス カナリア プネー フリップ ジャイプ せんこう サミング セント レナン クジャク ダイレ リード ユーブ ピーク ぶるーべ ドライフ ドック フルガイド案 けーるナビ クローシス バーベル トロツ ビット ドラッグ 夢海峡 風のシア バスタ

しかるに、かかる技術的に教え得ない知識を自分も深め、人に勧告するには「魂の気づかい (epimeleia tes psyches) 」[4]が必要であるが、この意味は理念的な徳の内的理解にむけての精神の教育ということであり、その目的は、眼に見えぬ理念の理解をつうじて善のイデアという最高存在にまで精神の射程が及ぶことである。

その倫理学は国家学、政治学という社会的レベルをその帰結とする。ひとの霊魂が理性、意志および情欲にわかれるように国家構成階層も支配階層、防衛階層および職能階層にわかれ、それぞれに該当する徳は知恵、勇気および節制である[5]。 これら三つの徳が調和すれば正義が実現される[6]。国家の最重大事業は教育であり[7]、すなわちプラトンの倫理学は、個人倫理、同時代に対する社会倫理としての政治学、未来に対する倫理学としての教育学、に三分されるのである。

後世への影響
アリストテレスの思想の成立に師プラトンが大きく関与したことは議論を待たない。ただし、その継承関係には議論があり、アリストテレスはプラトンの思想を積極的に乗り越え本質的に対立しているとするものと、プラトンの思想の本質的な部分を継承したとするものとに大きく分かれる。

プラトンの影響としては、ネオプラトニズムといわれる古代ローマ末期の思想家達を挙げる事が出来る。「一者」からの万物の流出を説くネオプラトニズムの思想は、成立期のキリスト教やルネサンス期哲学、さらにロマン主義などに影響を与えた。(ただし、グノーシス主義やアリストテレス哲学の影響が大きく、プラトン自身の思想とは様相が異なってしまっている)

プラトンは『ティマイオス』の中の物語で創造者「デミウルゴス」がイデア界に似せて現実界を創りあげたとした。この「デミウルゴス」の存在を「神」に置き換える事により、1世紀のユダヤ人の思想家アレクサンドリアのフィロンはユダヤ教とプラトンを結びつけ、プラトンはギリシアのモーセであるといった。『ティマイオス』は西ヨーロッパ中世に唯一伝わったプラトンの著作であり、プラトンの思想はネオプラトニズムの思想を経緯して中世のスコラ哲学に受け継がれる。

なおアトランティスの伝説は『ティマイオス』および『クリティアス』に由来する。

著書
プラトンの著書として伝わるものには、対話篇と書簡がある。ただしそのうちにはその真偽が疑わしいものや、多くの学者によって偽作とされているものもある。

プラトンの著書の真贋はすでに紀元前のアレクサンドリアの文献学者によって議論されてきた。現在伝わる最初の全集編纂は紀元前2世紀に行われた。古代ローマのトラシュロスは、当時伝わっていたプラトンの著作をその内容から執筆順に並べ、かつ主題に沿って4部作集に編纂した。現在のプラトン全集は慣行によりこのトラシュロスの全集に準拠しており、収録された作品をすべて含む。ただしトラシュロスはすでにこのとき幾つかの作品はプラトンのものであるかどうか疑わしいとしている。

プラトンの真筆であると一致している著作のうちもっとも晩年のものは『法律』である。ここでは『国家』と同じく政治とはなにかが語られ、理想的な教育についての論が再び展開されるが、哲人王の思想は登場しない。また特筆すべきことに、『法律』ではソクラテスではなく、無名の「アテナイから来た人」が語り手を務める。多くの研究者は、この「アテナイからの人」をプラトン自身とみなし、語り手の変化を、プラトンがソクラテスと自分の思想の違いを強く自覚するにいたったため、ソクラテスを登場させなかったとみなしている。

『法律』の続編として書かれたであろう『エピノミス』(『法律後編』)では哲人王の思想が再び登場するが、『ティマイオス』の宇宙観と『エピノミス』の宇宙観が異なること、文体の乱れなどから、ほとんどの学者は『エピノミス』を弟子あるいは後代の偽作としている。ただし少数の学者は『エピノミス』を最晩年のプラトンがその思想を圧縮して書き残したものと考えている。

プラトンはイソクラテスの影響を受け、中期より文体を変えていることが分かっている。文章に使われる語彙や母音の連続などを調べる文体統計学により、現代ではかなりの作品の執筆順序に学者間の意見は一致している。たとえばトラシュロスが『クリトン』の後においた『パイドン』(ソクラテスの死の直前、ピュタゴラス学派の二人とソクラテスが対話する)は、中期の作品に属することが分かっている。ただしその内容から、幾つかの作品については執筆年代についての論争がある。

テアゲスという作品は一般的に偽作とされているが、真作であることも否定できない。真作か偽作を判断するのは 容易ではない。カルミデスという作品も偽作の疑いがある。法律も一部偽作の疑いがある。プラトンの偽作論争は今日でも続いている。偽作か真作かを認めないかでプラトンの思想は大きく変わってくるので、この問題は重要である。

一覧
初期(主にソクラテスの姿を描く)
『ソクラテスの弁明』
『クリトン』
『プロタゴラス』
『エウテュプロン』
『イオン』
『ヒッピアス (大)』
『ヒッピアス (小)』
『ラケス』
『カルミデス』
『リュシス』
『ゴルギアス』
『メノン』
中期(イデア論を展開)
『饗宴』
『国家』
『クラテュロス』
『パイドロス』
『パイドン』
『アルキビアデスI』
『アルキビアデスII』
『パルメニデス』
後期(研究者によってはイデア論を放棄した時期とする)
『テアイテトス』
『ソピステス』
『政治家』 (ポリティコス)
『ピレボス』
『ティマイオス』
『クリティアス』未完
『ヘルモクラテス』未筆
『法律(ノモイ)』
『エピノミス』(法律後篇)-ただし偽書の疑い濃し
アクシオコス  徳について  定義集

2009年02月07日

無政と反国家

一般に「anarchism」は「無政府主義」と訳されるが、無秩序を意味して使用される「無政府状態」のネガティブな無政府とは同義でなく、「権力・権威がない」、可能な限りの自由な秩序をも意味している。このようなヒエラルキーへの反対という観点からみれば、アナキストがアナキズムの別名として使った、「自由社会主義」「自由共産主義」「リバータリアン社会主義」「リバータリアン共産主義」の意味がわかるだろう。
またアナキズムがいう「反国家」という場合の「国家」も注意が必要である。アナキズムは、人間の共同体や社会を否定する反秩序派ではない。アナキズムのいう「無政府」が、政府無き無秩序を意味するのではなく、権力の無い自由な秩序を意味しているように、アナキズムが反国家という場合の国家とは、権力機構、権力装置としての国家を指している。国家には近代の国民国家時代には「最高度の共同体」という意味がある場合もあり、その場合の国家は、自由を実現する共同体の基礎単位とされる(分かりやすい例が、若き頃のヘーゲルやシェリング、ヘルダーリンが求めたもの)。
ナビワジ マーモ リカー 一刻千金 トベラ シャン フック トロピ アームロ サリドマ ビーツ ヨーク アンダー みみず クマザ ワラルー レース 結の的 サーチ バルコニー スキタイ ナビ凪笛 ドライアイ ぬくもり ローラム サンゴ トポロ ソナタ レモンバ ブリーフ ソバ国内 ボイル キキーモラ リーブ オブザ スルタン けんばん 水たまり トパーズ ムンク セラミド シーレー よいち シロップ ふだい プライ サルベージ ショート ファジー ファーム

近代アナキズムが言う無政府(権力なき自由な秩序)とは、この意味での国家(自由を実現する共同体)の水準のものであるということである。ポスト国民国家の時代においては、権力なき自由な秩序の基礎単位は国家ではなくなり、それに応じてアナキズムのいう無政府概念の水準も変わってこよう。近代アナキズムに対する現代のアナキズムのテーマもそこにあるといってもさしつかえないだろう。

反グローバル資本主義運動・地域主義と無政府主義
1996年のシアトルでの国際サミット以降の反グローバリゼーション・反グローバル資本主義運動にはアナキズムとの思想的類似性が見られる。また、メキシコのNAFTA体制により悲惨な生活状況を送っていた先住民が多く住むチアパスにて、アナキズム的傾向を帯びたサパティスタ民族解放軍がメキシコ政府に叛乱を起こし話題になった。この様な例に見られるように、地域主義・地域共同体を支える立場としてのパトリオティズム(愛郷主義)とアナキストの考える中間集団主義はともに同じローカルな自律的相互扶助に基づく分権的再配分を行う共同体という意味で同じであり、パトリオットでありかつアナキストであるという立場が可能である。

社会主義

社会主義
空想的社会主義
科学的社会主義(共産主義)
ソ連型社会主義
社会民主主義
民主社会主義
アナキズム
アナルコサンディカリスム
国家社会主義(ファシズム)
アラブ社会主義(汎アラブ主義)
アフリカ社会主義
ビルマ式社会主義

仏教社会主義
キリスト教社会主義
イスラム教社会主義

コミューン
労働組合
第一インターナショナル
第二インターナショナル
第三インターナショナル
社会主義インターナショナル

パリ・コミューン
ロシア革命
クロンシュタットの反乱
マフノ運動
スペイン革命
スペイン内戦
ドゥルティの友
サッコ・バンゼッティ事件
アナルコ・サンディカリスム
サンディカリスト
怒りの旅団
純正アナキズム
黒色青年連盟
農村青年社
無政府共産党
日本アナキスト連盟
アナキスト革命連合
無政府共産主義者同盟
空想的社会主義
ナロードニキ
アナルコ・キャピタリズム
ミナーキズム
リバタリアニズム
コスモポリタニズム
ウィリアム・ゴドウィン
ピエール・ジョゼフ・プルードン
マックス・シュティルナー
ミハイル・バクーニン
ジャム・ギョーム
ジュゼッペ・ファネリ
ピョートル・クロポトキン
ウラジミール・チェルケゾフ
ネストル・マフノ
ピエール・ラムス(ルドルフ・グロースマン)
エンリコ・マラテスタ
カルロ・カフィエーロ
アンドレア・コスタ
ヨハン・モスト
ブエナヴェントゥラ・ドゥルティ
マックス・ネットラウ
グスタフ・ランダウアー
エーリヒ・ミューザム
エマ・ゴールドマン
ジョルジュ・ソレル
幸徳秋水
石川三四郎
伊藤野枝
大杉栄
中浜哲
難波大助
八太舟三
岩佐作太郎
秋山清
大澤正道
牧田吉明
千坂恭二
外山恒一
奥崎謙三
康有為

2009年01月22日

民族音楽(みんぞくおんがく、ethnic music)

民族音楽(みんぞくおんがく、ethnic music)とは、民族土着の音楽、またはそこから発展した音楽のことである。

民族音楽という語に含まれる「民族」とは、ethnicという英語に集約されるように(語源であるエトノスという語は、古代ギリシアにおいて周縁的な人々を指した。詳しくは民族の項を参照)、ヨーロッパ人が自分たちの作り上げた近代文明国家に対しての他者という意味で用いた語である。植民地主義全盛の19世紀、植民地研究が盛んに行われたが、民族音楽という概念もそのような文脈から生まれて来たのである。

その結果、歴史的には、ヨーロッパから見て他民族の音楽が民族音楽と呼ばれてきた。他方で、ベラ・バルトークのように自国の民族(民俗)音楽の掘り起こしも行われ、それが新たな創作の基盤となった例もある。

「ワールド・ミュージック」

「全ての民族は音楽を持っている」のか?
音楽は、(マンダ教徒などを除けば)、およそあらゆる民族が持っているものであり、人間の文化には不可欠かどうかはともかく、あらゆる文化圏に於いて、それなりの音楽が存在すると広く信じられている。こうした主張は音楽人類学者のジョン・ブラッキングやアラン・メリアムらによって広められたものであるが[1]、近年ではアメリカや日本のろう者の間で、自らを少数民族と位置づける論調もあり[2]、しかも彼らは(一切音響を用いない手話歌はともかく)一般的な意味においての音楽を排除する傾向にあることから[3]、「あらゆる民族が音楽を持っている」という信念には疑問符も付けられている。

音楽民族学(おんがくみんぞくがく)とは、もともとは民族音楽学、すなわち民族学(ethnology)と音楽学(musicology)とがあわさったものである(ethno-musicology)。なおethno-musicologyという用語が定着したため、ethnomusicologyとハイフンを付けなくなってきた。少なくともその発祥は、一般的に言われる民族音楽を研究対象とする学問ということではないが、実質的には、西洋伝統音楽以外の音楽を対象としている。研究対象としての「民族音楽」というものが実際には、西洋芸術音楽とその他という図式の下に成立していることは明白である。したがって西洋の音楽学者にとっては地元にない音楽の研究をすることになるので、録音再生技術の向上や、交通や運輸の発達により、世界中から音楽を集めやすくなったことによって研究が進めやすくなったとも指摘される。

ところで、ガムラン音楽や雅楽といったいわゆる「民族音楽」が固有の文化に属する音楽であるのであれば、西洋芸術音楽も例外なく、固有の文化に属した「民族音楽」であることは絶対に否定し得ない。ゆえに非西洋音楽の研究を民族音楽学とするのは、「民族音楽」なる音楽があたかも実際に存在しているかのような錯覚を生む差別的な述語であるために、近年は音楽の民族学的研究という意味での音楽民族学という名称を使うのが一般的になりつつある。また音楽人類学といった言い方もされることがある。

かつては特に、各民族の音楽を比較する分野を比較音楽学といったが、この名称は民族音楽 といわれる以前の19世紀末の欧米列強の植民地音楽と西洋音楽とを「比較」するということを端緒としていた。これは植民地の音楽と西洋音楽との比較によって、音楽の始原を追求し、音楽がいかに原始的な形態から西洋音楽のような進化した形態になるのかということの解明をひとつの目的としていた。このような歴史を踏まえ、近年では使われなくなりつつある。
セタノール スタッフ 青空の破片 シロキ システム シャリ フレッシュ 星空 レビュー スケープ レター セラピスト ウォータ 雪化粧南瓜 ヤンゴン マリン フリマ ジンゲス ひえい リヤド 大冒険ニュ ポポポ ハート なご セレシン ジンク ネーチャー ブル スティック スポーツ リトル ショート システ フリー 砂漠のバラ ブジー コスメ クリーム トロメア うぇあ あしげ プロペラ ナイフ ショッキ キュート イング スタメン チャ・チャ バラクーダ ローブチ

バルトーク・ベーラ
コダーイ・ゾルターン
ロヴァース・イレーン
フランシス・ジェームズ・チャイルド博士

民族楽器(みんぞくがっき)とは、楽器のうち、特定の民族との結びつきが強く、通常特定の民族によって演奏される楽器のことである。また、特定の民族の演奏する音楽(民族音楽)を演奏するために使われる楽器である。

特定の民族との結びつきが弱く、多くの民族によって演奏されている楽器のほとんどは、西洋音楽で用いられる楽器であるから、それ以外の楽器が民族楽器に該当する。一般には、「クラシック音楽の楽器(古楽器を含む)」「ジャズの楽器」「電気楽器」「電子楽器」を除く、「世界各地の民族固有の伝統楽器」という意味で用いられる。また、日本では、日本音楽で用いられる楽器は民族音楽から除かれることも多い。

ヨーロッパ以外の地域では、伝統楽器に近代的・現代的な改良・変更が加えられたものも含まれる。例えば中国の「古筝」(Gu Zheng グージェン)・「琵琶」(Pipa ピーパ)は弦やフレットを大幅に増加し、弦の材質および調弦機構にも現代的改良が施されているが、「民族楽器」に分類される。(厳密には、アイルランド等のヨーロッパ諸国でも、同様の「改良」を行った「民族楽器」を用いている場合が多い。例:フィドル、アイリッシュ・ハープ、バグパイプ)

近年は「民族楽器」がポピュラー音楽や現代音楽に用いられることも多いが、その場合も「民族楽器」であることに変わりはない

2009年01月15日

室町時代の浄土真宗の僧

大航海 だいこん バント しじょう ハレー ポル国内 トップス アッチラ シャボン ラゴン リーマン ラグソール ラセボ カスト ボール リリヤン レーション マッシ セレナ インター キルン バターク ロスメン ダルコ スキャ イチク スピッ シック ジッグ アグラ ラストシ オフサイド ローアン ソース ノズル ジラフ ヱスビ ラインビ ガスボンポ テミズム マスター てんゆう スカーフ ストライ ション スト ロース バミュー デル チョウゲ

蓮如(れんにょ)は、室町時代の浄土真宗の僧。本願寺第八世。本願寺中興の祖。同宗旨[3]では、「蓮如上人」と尊称される。明治15年(1882年)に、明治天皇より「慧燈大師」の諡号を追贈されている。しばしば本願寺蓮如と呼ばれる。

親鸞の直系とはいえ蓮如が生まれた時の本願寺は、他宗や浄土真宗他派、特に佛光寺派の興隆に対し、衰退の極みにあった。その本願寺を中興し、現在の本願寺教団(本願寺派・大谷派)の礎を築いた。

年齢は、数え年。日付は、『御文』(『御文章』)などの文献との整合を保つ為、旧暦(宣明暦)表示(生歿年月日を除く)とした。

応永22年2月25日(1415年4月13日[2])、京都東山の本願寺(現、崇泰院(そうたいいん)〔知恩院塔頭〕付近)にて、本願寺第七世・存如の長子として生まれる。母は存如の母に給仕した女性と伝えられているが、詳細は不明。幼名は、「布袋丸」。
応永27年(1420年)、蓮如が6歳。存如が本妻を迎えるにあたって、生母は本願寺を退出しその後行方知れず。蓮如幼年期の本願寺は、仏光寺の隆盛に比し、不振の極にあり、参拝者(後に蓮如の支援者となった堅田本福寺の法住ら)が余りにも寂れた本願寺の有様を見て呆れ、仏光寺へ参拝したほどであった。
永享3年(1431年) 17歳。青蓮院で得度し、中納言広橋兼郷の猶子となる。名を「中納言兼壽」と改める。
その後、本願寺と姻戚関係にあった興福寺大乗院経覚(母方が大谷家(本願寺)の出とされ、父・存如の従兄弟と推定されている)について修学。父存如を補佐し門末へ下付するため、多くの聖教を書写した。永享6年(1434年)5月12日の識語をもつ『浄土文類聚鈔』が、蓮如の書写になる現存最古のもの。
文安4年(1447年)、存如とともに関東を訪ねる。
宝徳元年(1449年)、存如と北国へ布教。
享徳4年(1455年)11月23日、最初の夫人、如了尼示寂。
長禄元年(1457年)6月17日、第七代存如示寂。
同年、本願寺第八代を継職。留主職継職にあたり異母弟・応玄(蓮照)を擁立する動きもあったが、叔父宣祐(如乗)の主張により蓮如の就任が決定する。なお、歴代住職が後継者にあてた譲状が存如筆のものだけ現存しないとされる(蓮如実子の実悟は譲状は存在したと主張しているが確証はない)事から宣祐(如乗)による一種のクーデター説もある。この時、応玄と継母は怒りの余り家財のほとんどを持ち出してしまったと伝えられる。
このころの本願寺は多難で、宗派の中心寺院としての格を失い青蓮院の一末寺に転落していた。宗派に対しても青蓮院の本寺であった比叡山延暦寺から激しく弾圧がくわえられた。これに対して蓮如は延暦寺への上納金支払いを拒絶するなどした。
寛正5年8月10日、第八子(五男)実如誕生。(元禄元年とも)
寛正6年(1465年)1月8日、 延暦寺は本願寺と蓮如を「仏敵」と認定。翌9日、同寺西塔の衆徒は大谷本願寺を破却。
同年3月21日、再度これを破却。蓮如は祖像を奉じて近江の金森、堅田、大津を転々とする。更に蓮如とは親友の間柄であった専修寺(真宗高田派)の真慧が自己の末寺を本願寺に引き抜かれた事に抗議して絶縁を通告した(寛正の法難)。
文正2年(1467年)3月、延暦寺と和議。蓮如の隠居と長男・順如の廃嫡が盛り込まれた。
応仁2年(1468年)、北国、東国の親鸞遺跡を訪ねる。
応仁3年(1469年)、三井寺の庇護のもとに大津南別所に顕証寺を建立、順如を住持として祖像を同寺に置く。
文明2年12月5日、第二夫人、蓮祐尼示寂。
文明3年(1471年)4月上旬、越前吉崎に赴く。
同年7月27日、同所に吉崎御坊を建立。荒地であった吉崎は急速に発展する。一帯には坊舎や多屋(門徒が参詣する為の宿泊所)が立ち並び、寺内町が形成されていった。信者は、奥羽からも集まった。