章宗は漢文化への傾倒が激しく、自ら第二の北宋の徽宗を自認して、絵画・書の作品を残した。また、この時期は国内が安定したこともあって明昌の治とも称されている。しかし、北方モンゴル高原では部族勢力の動きが活発化してタタルや契丹の反乱が激しくなり、金は鎮圧に際してケレイトやモンゴルの助けを借りたためケレイトやモンゴルの勢力が増大し、1206年にモンゴルのチンギス・カンによる高原の統一を間接的に助けた。一方、北方の動乱の情報を得て金が疲弊したと考えた南宋の宰相韓侂冑はこれを好機と見て1205年に金に攻め込んだが、金に撃退され、南宋は韓侂胄の首と引き換えに和約を結ばなくてはならなかった。
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そのような中で7代衛紹王が即位すると、チンギス・カンはこれに対する朝貢を拒否して金と断交し、1211年に自らモンゴル軍を指揮して金領に侵攻した。内モンゴルにいた契丹人を服属させたモンゴル軍は金軍を破って長城を突破し、2年あまりにわたって金の国土を略奪した。1212年には契丹人の耶律留哥が叛乱を起こして分離、現在の吉林省から遼寧省にかけて広がり、モンゴル勢力下に入った(東遼)。敗北を重ねた金では1213年にクーデターが起こって将軍胡沙虎によって衛紹王が殺され、さらに胡沙虎が殺された。相次ぐ敗北により抵抗の手をふさがれた新帝宣宗は同年にモンゴルに対する和議に踏み切り、モンゴルに対する君臣の関係を認めて歳貢を収めることを約束し、皇族の娘(廃帝・衛紹王の皇女)をチンギスに嫁がせる屈辱的な内容の講和を結んだ。
講和によりチンギスは撤兵するが、金は翌1214年にモンゴルを避けるため河南の開封に遷都した。このとき、金の南遷に動揺した契丹の一部が中都(燕京)で反乱を起こしてモンゴルに援軍を求め、チンギスも金の南遷を和約違反と責めて金に対する再侵攻を開始した。1215年夏、半年以上モンゴル軍の包囲にさらされた末に中都は陥落し、金は故地東北を含む黄河以北の大部分を失った。同年、耶律留哥の叛乱鎮圧を担当していた蒲鮮万奴が分離して大真国(東真国・東夏国)を建て、遼東半島の一部から沿海州南部までを支配した。
金は開封を都とし河南地方で辛うじて命脈を保ったが、その後もモンゴルの南進を食い止められず、1232年三峰山の戦いで大敗し軍主力が消滅。その後抵抗もままならず1234年についに開封を包囲、占領された。最後の皇帝哀宗は開封から脱出し蔡州に逃れるところをモンゴルと南宋の連合軍に挟撃されて自殺し、金は滅亡した。